進んでいるのか、後退しているのか

仕事に限らず、人間は色々な行動をしているのですが、それら全てにおいて”出きるだけ良い状態”を求めて行動しているつもりでも、それが果たして前進といえる改訂なのか、後退といわれる改訂なのか、判断は難しいものがあります。誰かにとって見れば、それは偉大な前進であっても、ある人にとっては愚かなる後退に他ならないかもしれません。人は、同じ”1”と言う数字を見るにも、思惑や感情で、多くも少なくも感じますし、自分に不利益や害があるかもしれないと思えば、何ともない言ってみれば無関係に近い大多数を無視して(又は強制的に関係者にまつり上げ)、自分に都合のいい事を、さも正義のようにふりかざします。それは、疑わしきは罰せずではなく、疑わしきは”罰する”とも言えるかもしれません。それは時として人を助け、大きな過ちを未然に防ぐ事になると同時に、多大に無責任な出費と企業や国の財政状態を圧迫する事にもなりかねません。一つの行動の遅延が、社会全体や国家全体を末期に追い込むこともあるでしょう。情報の判定には、その一面に付随する多くの情報を吟味し、理性的に判断しなければ、それは唯の感情論的な先見性の無い意見になってしまいます。ですが、人間感情を排して思考するのは、困難極まりない事だと思えます。信じる所が何処にあるのか次第で、全ては違って見えるからです。利益か、自分の事だけか、誰かが言う事だから信じるだけなのか、悪意か、0か1で判断したいのか、自分にかかる権利意識故か。何が、その根底にあるのかは分かりませんが、最終的には誰かを悪人に仕立てあげなければ気がすまない事例を多々見るにつれ、ならばどうしたらいいのかという建設的な意見交換の成立は難しいのかと、思わずにはいられません。