塾の禁止

さて、教育再生会議分科会で上のような一言があったとか。
ごもっとも!と思う一言ですね。元々人の学習するという行動は、何も勉強だけではないのですから。
とは言え、今の時代の塾というものは在るべくしてある部分が多いのです。
社会構造として、必要になってしまっている部分があるからですね。
手っ取り早く、不安を取り除けるのではないかという期待を持ってしまうのが親であり、未熟さの表れとも言えます。
そう、今や高校や大学というものは将来を決める大部分を占めると思い込んでしまう。当たり前に求めるステータスです。
資格試験が騒がれる大人社会がそのまま、子供の"資格”やステータスを求めているのでしょうか。
それとも、幸せや何かではない(いやある意味幸せを願っているのでしょうが)、安泰とした暮らしの可能性を求めるわけですかね。
今の幸せではなく、将来の幸せを願っているのです。分からなくは無いですね。子供には不自由ない暮らしをさせてやりたい。後悔の残る自分のようにはなって欲しくない。若しくは、体裁やなんかもあるかもしれません。千差万別色々な意見があるでしょうし、適当なんて出来ない部分でもあるのだから、神経質な面もしょうがないとも思えます。が、所詮は思想の強制と、未来の喪失(創造性の喪失とも言えますが)、そして言ってみれば”新しい身分制度”の始まりにも感じられますね。
遊び、怪我をし、喧嘩をし、怒られ、褒められ、友と笑う、漫画を読む、小説を読む。
ある意味、これも勉強です。
元々大本からすれば、大学は専門分野を更に学びたい者が行く所であって、ステータスの為に行くべきところではない。
そして、研究をしたいでも、深く知識を求めるのでなければ、義務教育で十分なのだ。
折角の義務、そして在るべきして在る義務である。
教育の意味、教育機関の意味、義務教育とはなんなのだと今一度しっかりと見直すべきです。
大学でなければダメだと言うのなら、大学まで義務教育にするのが道理。が、それには金の問題も絡む。
更に、実際問題今の義務教育以上の専門知識は大半の実務では不要であり、寧ろ社会に出てから実用的に学ぶでも悪くない。
更に、社会に出て働くのが遅くなればなるほど、人一人の生涯生産能力は極端に下がる。
挙句権利の主張と、現代の悲劇を語られても、何の役にも立ちはしない。
日本は自由を謳ってはいるが、選択の幅は真実狭い。教育再生会議ではしっかりと話し合ってもらいたいものである。
とは言え、先ずはモラルの大切さと、勉強の楽しさ、勉強できる事の素晴らしさを思い出す事が大切だ。