人間機械論(サイバネティクスと社会)

さて、大分昔に購入した本であるが、何度も何度も読んでしまう本の一つである。
私のような凡にも至らぬ人間は、何事も時間がかかってしまういい例かもしれない。
それはさておき。
SF的な事を言いたいのではなく、ただ純粋にその理論の通信・制御・情報処理関係の考え方自体が興味深い。
一つの機械としての限界とその理論的想像力(演算能力及び”学習”による情報処理)、神経系との比較とその恒常性を持った自動制御、フィードバックの考察。
そう、フィードバックである。自己調節機能である。
内的フィードバックと外的フィードバック。それらで、学習し自ら調節し生きているのが機械的に見た人間だ。
が、どうだろう。話は大分変わるし、サイバネティクス的に語るわけでもないが、人は過去から学んでいるのか?
悲観的に、絶望的に、世界を見ているわけではないが、どうにも国家間の駆け引き、そう政治的な話は表面だけみると幼く感じられる。実際の現場は現実的で圧倒的で成熟された世界かもしれないが、その相対的な行動結果はなんら進歩と呼ばれるほど成熟されたものとは思えぬ。それは、通常の社会組織も、世界構成においてもだが、発展の余地ありと考えられる。
過ちは繰り返され、過去の過ちは現在進行形で正される事なく進み、世は廻っている。もちろん、”正しく矯正された”物事もあるだろうが。何が過ちか、何を正すべきかは大いなる問題であり、偶像に任せるわけにはいかぬ自らの問題である。元来、善と悪は正式に定義できる類のものではない。立場と捉えかたである。それにしたところで、確率論的にでも何でも予測する必要があるのがあるだろう。
情報は善でもないし、悪でもない。ただ、発信する人間と受信する人間の行動には善も悪も存在しえるのである。
そして、それを”学習”することにも、環境による変化を考慮しないわけにもいかない。
だが、しかし。人間の世界の恒常性を支える為に、そんな現状を看過し得る訳にもいくまい。
画一的である必要もないし、統一された思想が必要なわけでもない。個々は個々として存在し、その肯定をしている事も必要だろうし、自由意志は尊重されるべきだとも思うが、全てではない。
考えるべきは多々あるのである。ただ、問題は考える事は必要であるが、考えただけでは、何もならないのである。暴力ではない制御は、思想を制御したがるが、それも言ってみれば拘束であり、行くべき道とは思えぬ。