ニセ○○

ニセ科学
改変ネタなどでは、ニセ歴史学、ニセ社会科学、ニセ経済学、ニセ議員、ニセブログ論、ニセ『Webの常識』などなど。
人は安易な二分法に頼りたくなるときがある。特に、悩み、不安を抱え、苛立ちを覚えている時など良くある事だ。
これはいい、コレは悪い。でも実際は、何事にも沢山のメリットとデメリットがあって、簡単に判断できるものでは無い。
何故今こんな事をと言えば、とある裁判の原告、被告の準備書面を読んだときに感じたことである。
もう少し補足するなら原発の運転差し止め訴訟である。
新聞でこういっていた、と言った内容で碌な事実確認も科学的思考もなく”危ないから”と断じる原告と、良くも悪くも科学的であろうとするが故に、曖昧な回答になる被告側。どっちもどっちである。
原告も被告も裁判になるからには一方的な物言いしかできないのだろうが、どちらにしろ世界は待ってはくれない。
それも、私の良くほざく”地球環境”がのっぴきならないせいである。
はっきり言えば、日本のエネルギー政策上今現在電力の30%以上を供給している原子力発電を停止し、それでも尚今までどおり、いや今まで以上の生活を望みつつ、二酸化炭素を減らす事は不可能だ。それはあまりにも希望的観測に過ぎない。別の手段が有効且つ安定的で理想通りだったらいいな、の話題ではすまないのだ。
廃棄物の問題や唯一の被爆国として未来の子供の為に原発を停止すべきと声高に叫ぶのも結構だが、実際問題エネルギーの無いわが国では燃料を輸入しつつ少しでもほんの僅かであってもサイクルを回す事のできる原発を進めるしかないのかもしれないし、そうでないかもしれない。
そこで、別の手段も考えてみようではないか。
核融合実験炉は、”市民団体”の”善意”の”反対運動”で日本には設置されなかった。
風力発電も設置を検討されている地元の有志による”環境を考える善意の反対運動”で頓挫している所が多い。
水力発電も未来の子に今の自然を残すべきだという”善意”の反対運動で中止する計画ばかりだ。
波力発電も、”わが国の資産である景観を損ねる”と言う”善意”の反対運動で頓挫。もしくは国防と工事費の都合がつかないか、だ。
地熱発電所はと言えば、矢張り周囲に与える硫黄臭の問題や、設備等のコスト増に伴う料金の増加に”反対"となる者や何しろ余りの大規模開発が必要な分野である。よく聞く反対運動は皆こぞって叫ぶだろう。源泉が取られる、新しい温泉が湧いてお客が取られる、土地価格が下落する、等々だ。
ならば、太陽光発電かと思えば、試算によるならこれからの電力需要を支えるには足らないという。何せ風力や太陽光と言ったよく言う新エネルギーの2010年の目標値が全体の3.1%だ。96.9%は不足する。
残りは自家発電か燃料電池かと思えば、結局コレも今の理論で言えば化石燃料を使うのだ。資源の乏しい我が国は先が見えると言うもである。
では今までどおりに、火力発電だといえば”二酸化炭素の排出を減らせ”と叫ぶ”善意”の市民団体が立ちふさがる。資源の枯渇は言わずもがな。
次は、何をすればいい?皆で蝋燭を灯すか?火を灯して、効率の悪いエネルギー使用をしながら、二酸化炭素を排出し続けるか?木を切り倒し、薪をくべ、温暖化に寄与するか?
日本の人口はこれから減ると言われている。本当かどうかは、なって見なければ分からないが、子供一人育てるのに今のご時勢のように金がかかれば、子を沢山育てる事は出来ないから、当然少なくなっていくのだろう。
でも、エネルギーは要る。今の生活は捨てられまい。
さて、何やら話がそれている感があるが、此処で”ニセ○○”が全ての問題で立ちふさがるのである。
大体全ての反対運動の大部分を占める所が”ニセ○○”で構成されていたりする。
ゲーム反対の人は、ニセ科学的なゲーム脳を信じているという。科学を信じているが故に、科学とは程遠い思考に走るのだそうだ。本当かどうかは学のない私には分からないが、自分に都合がいい情報だけを取捨選択し使うのは身の覚えのある事だ。耳が痛い。
何人かの大学教授が危険かもしれないと言えば、”それは危険なのだ”で決定。多角的に、合理的に、科学的に思考する何か足りえていない。
とは言え、今や教育者にした所で、中々に二分法が好きだったりするから何せ難しい世の中である。