信じること

近頃”信じること”とか書くと、どうにも綺麗ごとに聞こえる。若しくは恐怖を感じるだろうか。
実際はいい事と悪い事が共存しているようなもので、信じるということ自体には悪は無い。また、善もない。
ただ、自分がどう思っているかなのだから、自由と言えば自由である。それを為す、根本がどうかが問題になるだけだ。その根本を時代と世界がそれを許すか許さないかが、いってみれば善悪を定めるのである。
妄信的に信じるとか、裏づけのない悪意を信じたり、曲解した情報を信じるとか、自分の信じるもの以外を信じないとなると話は流石に悪は無いだの善は無いだのとは次元が変わってくる。
人は意思疎通のできる生き物である。口でも手でも、目でも、足でも語る方法はあるだろう。
自分の意思を相手に伝えることができるのである。が、伝えたところで相手が何も受け付けないのであれば、それは疎通とは程遠い独り相撲である。
例えば、”何々は体に悪い”という報道が簡単な紹介程度に為されたとしよう。案外そんな情報を鵜呑みにする人も結構いる。
どうして悪いのかも同時に放映していたとしよう。するならば、信じる人はもっと増える。
が、実際にはその”どうして悪いか”の前提や解釈自体が間違っている可能性もあるわけだが、その可能性なぞ普通は考慮してはいない。また、此れだけ情報の溢れる世界で、どの程度フォローできるものか。
更に、そこへ世界情勢的な中でのプライオリティー(それ自体が信じる世界によって違う事も在り得るが)や政治情勢、社会構造的な癒着関係や宗教的な問題が絡んでくると手に負えない。
みんながみんな、信じるもののためだけに一生懸命で、相手の言い分を聞かないなんていう悪夢もあるだろう。
ついでに問題なのは、科学的だとか理論的、理性的、合理的とかそんなものでなく、感情的、宗教的ってのも人間捨てられない問題だから、難しいにも程がある。
それでも、何かを為したいのであれば、そしていい方向へと向かいたいと只管に願うのなら、きっと信じるものの上で固執しない話し合いが必要だろう。
批判は必ずある。どちらに立っても、必ず相手に対して批判と言うものはある。それも、一つの意思表示だから悪いわけではないが、批判の先には建設的な何かが欲しい。
何かの反対運動と推進派の言っていることは、噛みあっていないか何かのデータを相手の都合の悪いように解釈したり自分に都合がいいように解釈したり色々ある。勿論それだけでないだろう。真実を語っているかもしれないし、一片の真実も含まないかもしれない。駆け引きというもの一つの手だから否定は出来ない。
だが、今という時代は足踏みを容易に許してくれる程寛容ではない。更に戦争などの暴力によっていらぬ資源を無駄に浪費する事なぞもってのほかである。
自分の信じるものの為に、他者の信じるものをどこかで認めなければ進展は無いのかも知れない。
それが、叶う事でないとしても期待したいものである。先ずは、自分がそうなれるよう努力しなけれななるまいが。